クロアチア=中央ヨーロッパの 関係

ヨーロッパの主要な国々や文化との関係に加え、中央ヨーロッパの国々との関係も歴史的、地理的な関連性によりクロアチアにとって重要であった。クロアチアと中欧諸国の関係は、政治的(国家・法律)と民族文化的(スラヴ人としての共通点)といった二つの主な要因によって形成されていた。

共通の国家間の枠組みは、クロアチアとハンガリーの最も密接で最も長期的な(千年以上に及ぶ)関係を形成した要因であり、スロバキアもハンガリー王国の一部であったため、ハンガリーを通じてスロバキアとの関係も存在していた。16世紀以降、チェコ人と一部のポーランド人もハプスブルク帝国の領域という国家的枠組みに入った。

クロアチア人とチェコ人やポーランド人を結びつける民族的起源に関する伝説は古くから存在しており、19世紀には、スラヴ人の相互性という思想が、主導的な思想家と芸術家の間の具体的な協力関係の発展の基礎となった。

クロアチア=ハンガリー関係

クロアチアとハンガリーの長く密接な政治的結びつきを背景に、エステルゴム大司教区に属し、その後カロチャ大司教区の管轄になるザグレブ司教区が1094年に設置されて以来、ハンガリー人は内陸クロアチアの文化の形成に重要な役割を担っていた。彼らの仲介を通して、最古の典礼写本『司教典礼書』(ラテン語:『Agenda Pontificialis』)、『祝福書』(ラテン語:『Benedictionale』)と『秘跡書』(ラテン語:『Sacramentarium』)がクロアチアの地域にもたらされ、文学を通じてハンガリーの聖人であった王のラースロー1世、イシュトヴァーン1世、イムレやエルジェーベト王女の崇拝が広がってきた。

最古のクロアチア・ハンガリーの文学的つながりの痕跡は教会や宮廷・騎士道文学にみられ、特に勢いが増したのはマーチャーシュ1世とその後継者の治世の人文主義時代(15世紀)で、当時はクロアチア人がハンガリーの宮廷や大学社会に参加していた(ペーチ司教ヤン・パノナッツ、マーチャーシュ1世を育てたスレドナ出身のイヴァン・ヴィテズ、彫刻家イヴァン・ドゥクノヴィッチとヤコヴ・スタティリッチ、建築家ヴィンコ・ドゥブロヴチャニン、ミニアチュール画家ジュリオ・クローヴィオ、医師イヴァン=ヤコヴ・デ・アンゲリス)。ハンガリー文学ではクロアチアの口頭詩や、後にイリュリア時代の詩の影響がみられる(バラッシ・バーリント)。相互的なつながりは、言語的影響、移住、共通の支配者やオスマン帝国との戦争の英雄、特に(よく二重の文化的アイデンティティを持つ)貴族の家族的関係を通じて発展した。例えば、17世紀にペタル・ズリンスキは、兄ニコラが元々ハンガリー語で書いた詩『アドリア海の人魚』をクロアチア語に翻訳した。クロアチア人の何人かはカトリックの大司教区の指導者となり、その一人のアダム・パタチッチが18世紀に大司教区図書館を設立し、それが現在公立科学図書館となっている。

ニコラ4世ズリンスキ
ズリンスキ家の家紋
ヴラホ・ブコヴァッツ、『自画像』
1911年にスプリト出身のクロアチア人大学生がサッカークラブ「ハイドゥク」を設立したプラハのビアガーデン「U Fleků」に設置された記念碑
ボゴスラヴ・シュレック
教皇ヨハネ・パウロ2世、クロアチアへの最初の聖職者訪問、1994年

ハンガリー王国とクロアチア間の「ナゴドバ法」の締結(1868年)の後、ハンガリーの定期刊行物(『日曜新聞』(ハンガリー語:『Vasárnapi Ujság』)、『貴婦人通信』(ハンガリー語:『Hölgyfutár』)、『文学評論』(ハンガリー語:『Szépirodalmi Figyelő』))にクロアチアの文学に関する紹介、レビュー、翻訳が出版され、主に掲載されたのはイヴァン・マジュラニッチ、ペタル・プレラドヴィッチ、アウグスト・シェノア、クサヴェル・シャンドル・ジャルスキ、ヨシップ・コザラッツとイーヴォ・ヴォイノヴィッチの作品である。同時にハンガリーの著作のレビューが「イリュリアの明けの明星」(クロアチア語「Danica ilirska」)、「月」(クロアチア語:「Luna」)や「ザグレブ新聞」(ドイツ語:「Agramer Zeitung」)に掲載された。クロアチアではハンガリーの文芸評論家と文芸歴史家(ペテーフィ・シャーンドル)の作品も出版され、マヴロ・シュピツェルとミロスラヴ・クルレジャはハンガリー文学を批評した。ハンガリーの劇作家(ヨーカイ・モール、モルナール・フェレンツ)もかなりの関心を引き、彼らの作品はクロアチアの舞台で上演され、その一方ミラン・ベゴヴィッチの作品はカポシュヴァールとブダペストの劇場で上演された。

文化関係において重要な役割を果たしたのはブダペスト大学での1881年からスラヴ語学科と、1899年から1939年までのクロアチア語・文学学科であった。『ハンガリー語文法書』の著者である文献学者のカジミル・グレクシャは1904年から1918年までザグレブの「叡智の学習」(現代は哲学)学部でハンガリー語の準教授として勤め、イヴァン・ボイニチッチは1882年からそこでハンガリー語の講師、そして1910年から1922年まで準教授として働いた。

1918年のオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、クロアチア人とハンガリー人との文化的仲介者の役割を受け継いだのはハンガリーの少数民族の出身者で、彼らは文芸雑誌を創刊し、戦間期や戦争後にはミラン・ベゴヴィッチ、スラヴコ・コラル、ミロスラヴ・クルレジャとティン・ウイェヴィッチの作品が頻繁に翻訳されている。ハンガリーのスラヴ語学者チュカ・ゾルターン、ハドロヴィッチ・ラースローとドゥダーシュ・カールマーンの翻訳や、多くのハンガリーの雑誌に掲載された翻訳により、他の重要なクロアチア文学作品もハンガリーで手に入れられるようになった。劇場では、ミロスラヴ・クルレジャとランコ・マリンコヴィッチの作品が最もよく上演された。クロアチア文学も南スラヴ文学のアンソロジーやクロアチア作品のみのアンソロジーのいくつかに代表されており、中にはチュカ・ゾルターン選集の『アドリア海のミューズ』(ハンガリー語:『Adriai tengernek múzsája』、1976年)が有名である。チュカはその『ユーゴスラビア諸民族の文学史』(ハンガリー語:『A Jugoszláv népek irodalmának története』、1963年)ではクロアチア文学について幅広く述べている。

ザグレブ大学哲学部に1994年に設置されたハンガリー研究学科と2014年に設立されたリスト・インスティテュート・ハンガリー文化センター・ザグレブも近年のクロアチアとハンガリーの文化的つながりの発展に大きく貢献した。様々な文化イベントの中で最近目立ったのは、ブダペストのヴァールケルト・バザール展示館で2020年に開催されたクロアチアの画家ミロスラヴ・クラリェヴィッチの展覧会や、「芸術と美徳―クロアチア=ハンガリーの800年間に及ぶ共通文化遺産」という、2020年にザグレブのクロヴィチェヴィ中庭ギャラリー、そして2021年にブダペストのハンガリー国立博物館で開催された展覧会である。

クロアチア=チェコの関係

クロアチアとチェコの文化関係は聖キュリロスと聖メトディウス兄弟の活動に遡ることができ、彼らの弟子が現代のクロアチアの地域でスラヴ式典礼を広めた(出典:『コンスタンティン・キュリロスとメトディウスの生涯』、クロアチア語:『Žitja Konstantina Ćirila i Metodija』)。古代スラヴ語のチェコ・モラヴィア語版でグラゴル文字で書かれた最古(10世紀)の文書『キエフ・ミサ典礼書』(クロアチア語:『Kijevski listići』)と古代スラヴ語のクロアチア語版で書かれた最古(11–12世紀)の『ウィーン断章』(クロアチア語:『Bečki listići』)がその文化関係を立証している。ザグレブ教区の最初の司教(1094年)はチェコ出身の司教ドゥフであり、多くの聖職者が彼の後を継ぎチェコから赴任し、ザグレブのカプトルの基礎を築いた。

14世紀半ば、ボヘミア王でもある神聖ローマ皇帝カール4世がプラハの近くにエマウス修道院(別名:「ナ・スロヴァネフ」)を設立し、そこにスラヴ式典礼を広めるためにクロアチア人グラゴリャシュ僧侶(典礼においてグラゴル文字と古スラヴ語を使用した僧侶) を招いた。80人のベネディクト会修道士が来たと言われており(最初に到着したのはクロアチア人のイヴァン・ハルヴァットであった)、フス派の出現とフス戦争(1419年-1436年)までそこに留まっていた。クロアチア人グラゴリャシュ僧侶の多くの翻訳は一つのスラヴ語から他のスラヴ語への最初の翻訳であるため、文学と歴史において極めて意義深い。カール4世の息子、ルクセンブルク家のジギスムントの神聖ローマ皇帝としての治世の時期に、クロアチアとチェコの関係はその絶頂期に達した。クロアチアの歴史的文書には、経世家で教会の高い地位にいたチェコの聖職者(1354年にダルマチアの司教であったクニンのブラジュ、1361年にポジェガの聖ペトロ教会の読師ペトル・モラフスキー、スクラディン司教オンドジェイ、フヴァル司教ルカーシュ、1332年–1338年にザグレブ教区司祭であったイヴァン・チェフ、1387年頃にザグレブの律修司祭であったヤクブ・チェフ)や、ザグレブでのフス派の説教師(ドミニックとヤン・ボヘムス)について記録され、それに加えて有力なザグレブ司教エベルハルド、バルバラ・ツェリスカ皇后と他のクロアチアの貴族はチェコのパルレル建築一家に所属した石工を雇い、自分の荘園に後期ゴシック建築式の多くの要塞、教会や修道院を建て、その中でもザグレブの大聖堂と聖マルコ教会、そしてレポグラヴァのパウロ会修道院が目立つ。

15世紀にはオスマン帝国との戦争に参加したチェコ人兵士がクロアチアに駐留した(司令官ペトル・ズ・ミシュリーナ、1470年から1478年までダルマチア・クロアチア・スラヴォニア総督であったブラジュ・ポドマニツキー、軍司令官ヤン・ヴィトヴェツ)。16世紀後半のオスマン帝国の敗北とクロアチアとオスマン帝国の国境の強化の後、1607年から1628年にかけて多くのチェコ人僧侶を受け入れられる条件が整い、当時クロアチアの主要な教育機関であったザグレブ・イエズス会のギムナジウムに多くのチェコ人が到着した(マルティン・スラビヌス、ミクラーシュ・クチェラ、マチェイ・ベルナティウス)。

クロアチアの工場制手工業時代(18世紀)にはチェコの職人の移民が増加しており、彼らはザグレブにあるイエズス会印刷屋(ヴォイチェフ・ヴィレーム・ヴェセリー)、カプトル印刷屋(アントニーン・ヤンデラ)や地方印刷屋の運営者として記録されている(イヴァン・クシュティテル・ヴァイツが『ザグレブの暦』(ラテン語:『Calendarium Zagrabiense』)を印刷した)。

クロアチアとチェコの関係はクロアチアの民族復興運動と1848年-1849年の革命のときに、フランティシェック・パラツキーとオーストリア・スラヴ主義の影響で強化され、その思想はイヴァン・ククリエヴィッチ・サクツィンスキの著作による触発によって1848年にプラハで開かれたスラヴ会議で表現された。政治的協力は文学の分野にも影響を与え、チェコの作家の翻訳はヨシップ・プラウス編集の雑誌「イリュリアの明けの明星」、「花輪」(クロアチア語:「Vienac」)と「キンセンカ」(クロアチア語:「Neven」)で出版された。ヨゼフ・ヴァーツラフ・フリチは「ザグレブ新聞」の主要な編集者であり(1873年–1876年)、1874年にチェコ文化協会「Česká beseda」を設立した。プラハでの学生時代、アウグスト・シェノアは雑誌「国民新聞」(チェコ語:「Národní listy」)と「黄金のプラハ」(チェコ語:「Zlatá Praha」)でクロアチア文学を広め、自身が1880年代にチェコで最も翻訳されたクロアチア作家となった。代表的詩人の中には、雑誌「スラヴ概観」(チェコ語:「Slovanský přehled」)に翻訳が掲載されたシルヴィエ・ストラヒミル・クラニチェヴィッチと、戯曲『分点』(クロアチア語:『Ekvinocij』)の1897年の初演以来その作品がチェコで最も頻繁に上演される演劇の一つになる劇作家イーヴォ・ヴォイノヴィッチがいる。

20世紀には、ザグレブ大学にグスタフ・ヤネチェク、フラン・スメタンカ、エミル・プラシェク、アルベルト・バザラ等のチェコ出身の教授が教鞭をとっていた。一方でプラハは当時のクロアチアの知識階級の学術的な中心地の一つであり、とりわけ著名な政治家となるスティエパン・ラディッチはカレル大学で学んだ。プラハが当時のクロアチアの絵画芸術の学びの場でもあった。ヴラホ・ブコヴァッツはアカデミーの教授となり、ミリヴォイ・ウゼラッツやヴィルコ・ゲツァンはそこで表現主義の潮流に出会った。クロアチアとチェコの関係はオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊、すなわちチェコスロバキア共和国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア)の建国の後も続いた。同時代の作家の作品は体系的に翻訳され(ヤロスラヴ・ハシェク、カレル・チャペック、ヤン・ネルダ、あるいはティン・ウイェヴィッチ、ミロスラヴ・クルレジャ)、その作品はクロアチアとチェコの舞台で上演された。チェコ文学と詩のアンソロジーが出版され、イヴァン・エシフとリュデヴィット・ヨンケがチェコ文学に関する論説を書いた。

最近でも、豊富な文化的協力が主に文学作品の翻訳を通して続いており、それにドゥシャン・カルパツキーとプレドラグ・イルサックが特に優れている。他の芸術分野でも盛んであり、イジー・メンツェルはザグレブの劇場やドゥブロヴニク・サマー・フェスティバルで演劇を監督し、プラハの春や反体制派の伝説的なロックバンドのプラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバースがザグレブに登場している。相互協力に関して欠かすことのできない主導者は、ザグレブ大学哲学部のチェコ語講座(1918年に設立され、1965年に独立した学士課程となった)とプラハのカレル大学やブルノのマサリク大学のクロアチア語・クロアチア文学課程、それから自らの団体を通じて民族文化遺産を生き生きと保ち続けているチェコの少数民族である。

クロアチア=スロバキア関係

クロアチアとスロバキアは、12世紀から1918年まで同じ多国籍の王国の一部であり、封建制度における有力者と貴族の下で同じ歴史的運命を共有していた。ハプスブルク家がクロアチア=ハンガリーの支配者になってから(16世紀)、エルデーディ家、フランコパン家、ケグレヴィッチ家などのその有力者と貴族の荘園はクロアチアとスロバキアの地域でも広がっていた。

クロアチアの主導的な人文主義者のスレドナのイヴァン・ヴィテズとヤン・パノナッツが、スロバキアで最初の大学ブラチスラヴァのウニヴェルシタス・イストロポリターナの設立(1467年)において大きな役割を果たし、他のクロアチア人とともにフランコパン一族の者がそこで教育を受けた。

17世紀初頭、その後聖人となるマルコ・クリジェヴチャニンがトゥルナヴァの神学校長、エステルゴム大聖堂の律修司祭とコシツェの近くのクラースナのベネディクト会大修道院長として活躍した。この頃、トルナヴァのイエズス会大学でユライ・ハブデリッチやアンドリヤ・ヤムブレシッチ等が働き、文化活動に従事する多くのクロアチア人が教育に携わり、クロアチアの宗教書や初歩読本が印刷された一方、スロバキアの知識人ヤーン・スピシャークとヤーン・ポルブスキーは1608年にザグレブでイエズス会修道会の設立に参加した。

クロアチアの民族復興運動の時期には、スラヴ人互恵主義の思想を提唱したパヴェル・ヨゼフ・シャファジークとヤーン・コラールや、スラヴ共同体の中の民族アイデンティティの育成を推進したリュドヴィート・シュトゥールの影響が強くみられ、イリュリア運動の何人かの参加者も1847年にその概念を受け入れた(イヴァン・ククリエヴィッチ・サクツィンスキ、マクシミリアン・プリツァ、ヤンコ・ドラシュコヴィッチ、スタンコ・ヴラズ)。スロバキア出身の博識家ボゴスラヴ・シュレックがクロアチアで活動し、文化、科学と経済の進歩に関する多くの復興思想をその作品や偉大な活躍で実現した。スティエパン・モイゼス司教の尽力で、ヤーン・チャプロヴィチやヤーン・コラールといったスロバキア人作家がクロアチアの新聞に掲載されるようになり、ヨシップ・ユライ・シュトロスマイエル司教は1863年にマティツァ・スロヴァチュカの設立を金銭的に援助した。同時にクロアチア民謡の翻訳や、イリュリア運動とその代表者の記事がスロバキアで出版された。ザグレブ司教アレクサンダル・アラゴヴィッチとザグレブ大司教で後の枢機卿ユライ・ハウリックというスロバキア人聖職者が二つの民族をより緊密に結ぶ上で重要な役割を果たした。

20世紀前半、全体を網羅するようにスロバキア文学を代表する作家の著作の翻訳がクロアチアの雑誌で出版され(スヴェトザール・フルバン=ヴァヤンスキー、ミーロ・ウルバン、ペテル・イレムニツキー、マトゥーシュ・カヴェツ)、作家ヨシップ・アンドリッチがスロバキア音楽の最初の歴史概要を執筆し、『スロバキア語文法書』を出版した。スロバキアの作家マリン・ククチン(本名はマチェイ・ベンツール)はブラチ島や南アメリカでクロアチア移民に囲まれて生涯の一時期を過ごし、それについて小説の中で語っている。スロバキアでは、アウグスト・シェノアやクサヴェル・シャンドル・ジャルスキの作品の翻訳が最も多かった。舞台では、イーヴォ・ヴォイノヴィッチ、ミロスラヴ・クルレジャ、ミラン・ベゴヴィッチの作品が上演された。

相互交流は第二次世界大戦後も衰えることはなく、近世まで特に芸術的・学術的分野での協力によって特徴付けられた。ザグレブ大学哲学部で1994年からボヘミア研究学科、スラヴォニア研究学科、クロアチア研究学科の課程内で行われ、1997/1998年度に独立した学士課程になったスロバキア語・スロバキア文学課程をはじめ、ブラチスラヴァのコメンスキー大学とバンスカー・ビストリツァのマテイ・ベル大学におけるクロアチア語学習、そして歴史家クヴェトスラヴァ・クチェロヴァー、科学研究や翻訳を通してスロバキアでクロアチアの文化遺産の推進を支援しているクロアチア語学者ヤーン・ヤンコヴィチ等やクロアチア初のスロバキア詩のアンソロジーの編集者ルドヴィグ・バウエル(『黒いバイオリン』)のような著名人も個人的にスロバキアとクロアチアのつながりを強くした。加えて、トゥルナヴァでは2003年からミーロ・ガヴランの作品の演劇祭が開催されている。スロバキアではクロアチアの少数民族、クロアチアではスロバキアの少数民族も様々な団体を通じて相互文化の結びつきに貢献している。

クロアチア=ポーランド関係

最初のクロアチア人とポーランド人の接触は、東ローマ帝国の皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによって10世紀に記録されているように、クロアチア人の古代の故郷であった「白クロアチア」が現在のポーランドにあるという伝説に関連している。これらの接触は、1370年にポーランド王に即位したクロアチア=ハンガリー王のアンジュー家のラヨシュ1世の治世の中で再開され、ヤゲウォ家のラヨシュ2世のクロアチア=ハンガリー王としての即位の際に強固になった(1516年)。当時、クロアチアの有力な学者たちはポーランドに留まることが多く(スティエパン・ブロダリッチ、トランクヴィル兄弟とフラニョ・トランクヴィル・アンドレイス、そしてアントゥンとミホヴィル・ヴランチッチ)、クラクフ大学には多くのクロアチア人学生が入学していた。トマ・ブディスラヴィッチは当時その司教館がポーランドの人文主義の中心地であった司教ピオトル・ミシュコフスキの侍医であり、後には王ステファン・バトルィによって貴族として列され、王立医師の称号を与えられた。彼がドゥブロヴニクに戻った際に持ち帰った文庫は、後にマヴロ・オルビニとイヴァン・グンドゥリッチ(ポーランドでは「イリュリアのホメーロス」と呼ばれた)がポーランドの事情を知るために使用したと推測されている。グンドゥリッチはその叙事詩『オスマン』でポーランドのホティンの戦いでの勝利(1621年)を祝った。ヤン3世ソビェスキのオスマン帝国に対するウィーン付近での1683年の大勝利はイェロニム・カヴァニンやアンドリヤ・カチッチ=ミオシッチにより称賛された。

より緊密な関係は、選出されたポーランド王の全期間を通じて続いた。ドゥブロヴニクとコトル湾出身の貴族は、ポーランド最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの宮廷に滞在し、王はクロアチアの科学者ルジェル・ボスコヴィッチと文通していた。

19世紀前半のクロアチア民族復興運動の間に文化的関係が強化された証拠の一つはリュデヴィット・ガイ作の、ポーランドの国歌『Jeszcze Polska nie zginęła』(意味は「ポーランドはまだ滅びていない」)の改作である愛国歌「Još Hrvatska nij' propala」(意味は「クロアチアはまだ滅びていない」)である。アダム・ミツキェヴィチは、彼が編集者であった雑誌「民衆トリビューン」(フランス語:「La Tribune des Peuples」)に、クロアチア人作家による作品を掲載した。復興主義者リュデヴィット・ガイ、スタンコ・ヴラズ、イヴァン・マジュラニッチ、ペタル・プレラドヴィッチなどのポーランド作家の翻訳が「キンセンカ」で出版され、アウグスト・シェノアが「花輪」でポーランド文学を推進し、そのおかげでクロアチアの地域でのポーランド語による作家とその翻訳者が増えた。劇場ではアロイジ・フェリンスキやアレクサンデル・フレドロの戯曲が頻繁に上演された。1843年、クロアチア議会で行われたクロアチア語でのイヴァン・ククリエヴィッチ・サクツィンスキの演説はポーランド国民の関心を引き寄せ、彼の詩も翻訳された。

19世紀後半には、スラヴ人の協力により文学的つながりは活気に満ちていた。1896年、ユーゴスラビア文学の選集がワルシャワで出版され(『世界文学概観』、ポーランド語:『Obraz literatury powszechnej』)、文学ではクロアチアの民族詩の影響がみられる。1905年来、クラクフでスティエパン・ラディッチ、ユーリエ・ベネシッチとブランコ・ヴォッドニックが協力していた雑誌「スラヴ世界」(ポーランド語:「Świat słowiański」)が出版され、1912年に「スラヴ協会」(ポーランド語:「Towarzystwo Słowiańskie」)が設立された。ポーランドにあるスラヴ学センターもポーランドとクロアチアのつながりに影響を与えた。例えば、ワルシャワの科学友好会やワルシャワ本校のスラヴ学部がある。クラクフのスラヴ学センターがクラクフ大学とクラクフ科学協会(後のポーランド科学芸術アカデミー)の中で発展し、スラヴ学者で哲学者のマリアン・ズジェホフスキはそこで活躍し、そのクロアチアに関する究極の主題はクロアチア民族復興運動についての研究(『19世紀のクロアチアの民族復興』、ポーランド語:『Odrodzenie Chorwacji w wieku XIX』)である。

20世紀初頭、新しく建国されたポーランドとセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア)では、文化や科学におけるつながりを担当していたポーランド・ユーゴスラビア友好会が設立され、当時も文学的なつなかりは最も強かった。こうしてポーランドでイーヴォ・ヴォイノヴィッチ、ミラン・ベゴヴィッチ、ミラン・オグリゾヴィッチとミロスラヴ・クルレジャの演劇が頻繁に上演され、付随して多くのポーランドの新聞がそれを掲載した(「スラヴ文化」(ポーランド語:「Kultura słowiańska」)、「スラヴ運動」(ポーランド語:「Ruch słowiański」)、「ポーランド= ユーゴスラビア評論」(ポーランド語:「Przegląd Polsko-Jugosłowiański」)、「文学新聞」(ポーランド語:「Gazeta literacka」))。1925年にクラクフ大学にスラヴ語課程が開設され、カジミェシュ・ニチュ、タデウシュ・レール= スプワヴィンスキ等がそこで活躍していた。同時にクロアチアでポーランド語やポーランド文化に関する知識人のサークルが拡大し、その中では辞書編纂者で翻訳家のユーリエ・ベネシッチが著名であり、彼はザグレブ大学のポーランド語講師とワルシャワ大学のクロアチア語講師となりワルシャワ大学で「ユーゴスラビア図書館」(ポーランド語:「Biblioteka Jugosłowiańska」)を創設した。最終的に、1919年のポーランド語講座の後継として、1965/1966年度に何世紀にもわたるクロアチアとポーランドの文化的・科学的なつながりの結果として、ザグレブ大学哲学部でポーランド語・文学課程が開始された。

ポーランド生まれの教皇ヨハネ・パウロ2 世は、何度もクロアチアに特別な好意を示し、教皇としての在位期間中、クロアチアは独立を達成し、3度の聖職者訪問で教皇を歓迎した。クロアチア人巡礼者への演説では共通のスラヴ人としての起源に言及し、「あなた方は古代の故郷であった白いクロアチアについて話しているが、それはまさに私の出生地があるところであった」と述べた。